投げ銭をしてくださった方にはメッセージが表示されているはずで、そこで少しだけ語っているのだが・・・
僕は、書いている記事より「少しだけ未来」に生きている。
そう、僕は、愛猫ポポロンとの闘病生活を送ってきています。
そんな僕が毎日、みんなに贈っている言葉がある
その言葉とは
大好きかわいいねちゅきちゅき、肉球ぺろぺろいただきます
そんな当たり前(?)の文言ではなく
「また明日ね」
だ。
毎日が幸せで毎日が尊い
猫たちと暮らすようになってから
毎晩、毎朝、毎時間毎分毎秒が楽しみで仕方がない。
朝は叩き起こされ幸せ
昼は鬼ごっこに猫圧に大忙しで幸せ
夕方はみんなでゴロゴロしたり鬼ごっこ(鬼のターン)で幸せ
寝る時もご飯食ってる時もみんなで、幸せ
そんな至高で至福の「毎日」がおくれること
それは当たり前だけど、当たり前じゃない
お恥ずかしい話、闘病になって再認識しました。
この時間は当たり前じゃないんだ。
だから日々を濃く、幸せに生きたい。生きて欲しい。
そう思いながら生きているのだが・・・
ポポロンの闘病が始まって数日経ったある日。ご飯を食べる量が減っていき、動くことをせず、暗いところで寝ている時間が増えてきました。
今までとは露骨に違うその姿。
副作用なのか?それともリンパ腫が身体を蝕んでいるのか?その差もわからない。
寝ている間に何かあったら
トイレに行っている隙に何かあったら
ずっと不安だった。
そんな時に眠る直前にぽーちーに無意識にかけた言葉が
「ぽーちー、また、明日も会おうね」
だった。
長生きさせるぞ!完治を目指せ!寛解!寛解!
それはもちろん根底に持っているし、間違っていません。
しかし、気がついたのです
「不治の病の闘病は、”また明日”の繰り返しなんだ」と。
“また明日”が後何回できるのか、それは本当にわからない。そんなの、無限がいい。
でも、とにかく今日を真っ直ぐ生きて、そして明日に繋げる。
そしてまた、明日も、“また明日”と笑顔で言えるように
僕は頑張るんだ、と。
だから、大好きなみんな、大好きなポーチー
また、明日も会おうね
クソ余談
ちなみに23:55くらいに
「また明日ね・・・」
と伝えて
00:00になった瞬間
「やあ・・・会えたね・・・」
と言うほぼストーカーのやり口みたいなことをしていたのは秘密である。