闘病日記 PR

「闘病」は「愛情表現」の一環に過ぎない

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ポーチーとの闘病生活も3ヶ月を超えて、慣れてきた・・・と言いたいところだが、なれるわけもないどころか、毎日毎日新たなクソキャラが現れて毎日新イベントの連続。

しかし立ち止まることも、休むことも許されないし、そんな時間もない。

ただひたすらに毎日ポーチーと向き合える、大事な時間なんだ。と心から思っている。

「しっかり休んで」と言ってくれる方も多いが

「ポーチーとの時間」を過ごせている以上、それは休み以外の何者でもないのだ。

みんなと過ごせている時間、みんなと同じ空間にいられること以上の癒しや休みなんて、ないのです。

変わっていく「闘病」への意識

リンパ腫と診断された時には最初の段階では

「絶対治してみんなでパーリナイ!だってポポロンは奇跡の猫だから!」

と意気込んでいた。

しかし良くも悪くも、それは希望的観測にしかすぎず、ある種“甘い”考えだった。

しかしそんな“甘い”考えも長いような短いような抗がん剤治療を経て少しずつ変化していっている。

抗がん剤治療を選択した時点で、いや、リンパ腫とわかった時点で

「完治させてまた元の通りの暮らしに戻るぞ!」

ではなく

「愛猫と過ごせる時間を一分一秒でも長く、最期のその瞬間までを幸せに過ごさせてあげられるか、痛くないよう、苦しく内容、辛くないよう、過ごさせてあげるか」

なのだと思うべきだった。

いや、先生にもそう言われたし、治療を開始するとなって、血眼になってブログや論文、ありとあらゆる記事に目を通し、何度もそのような文言を見てきた。

そんな文言を見るたびに僕はこう思っていた。

「はあ?ふざけやがって。最期最後って猫たちの人生を諦めたような発言をしてる雑魚どもめ!完治させるし!!愛がたらん!ばーか!!」

しかし今となっては、よくわかる。

みんな、最初はこうなんだ。

絶対に治す

元通りの生活に

そう思って走り出すんだ。

でも気がつくんです。

いや、猫に気がつかされるんです。

抗がん剤治療の本当の意味に。

人間では完全寛解、完治を目指すかもしれない。

しかし動物の場合体が薬剤に耐えられないこともあり「副作用が重症化しない程度」にとどめられるのだ。

つまり、完治寛解を目的としているわけではない(勿論それは目指しているが)あくまでQOLをいかによくしてあげるか、だ。

そう聞かされていたし、知っていたつもりだった。

でもどこかでやはり「完全寛解、完治」を目指してしまっていた。

それはそう。だれだって「最期」なんて考えたくないし、文字にも書きたくもない。

それに最期に向かって進む、なんて耐えられない。

でも、違ったんだ。

もちろん、1日でも長く、そして幸せに、は変わらない。伸びれば伸びただけ嬉しい幸せ最高。

でも僕ら飼い主が「その覚悟」を持たなければいけない。

僕ら飼い主が折れたら、終わりなのだ。

しかし、耐えろ耐えろ、頑張れ!ではない。

猫との過ごし方が暮らし方が少し変わるだけ

爪をいろんなところで研いじゃう子もいる。

変なとこでしか寝ない子もいる

ご飯の食べ方にクセがあったり

水の飲み方が特徴的だったり

猫の性格は様々。

年と共に遊ばなくなるし、年と共にキャットタワーの登り方とかも変わる。

ある種がそれと同じなんだ。

端的に言えば

「その時々で猫の性格や過ごし方が、少し変わった」

極端に言えばそういうことなんだ。

今ポポロンは、生活感が変わったんだと。

通院が必要になって、すこーしだけお世話が増えた。

でもただそれだけなんだ。

「おわり」「最期」なんて考えると辛くて辛くて、目も背けたくもなる

でも「今の愛猫の過ごし方の一つ」

として、今自分ができること、猫が幸せに過ごすための正しい行動を、しっかり模索すべきなのだと。

僕はみんなと出会ってからずっとそうしてきた。

ねこじゃらしであそばなければ他のおもちゃを、一つのおもちゃを気に入れば100個でも買う。

爪研ぎも寝床も

ご飯もおやつも

やがて家も建てた

常に常に猫ファーストで動いて考えて行動してきた。

今僕たちがしているのは闘病じゃないんだ。

これまでとはまた別の方向の、別の形の猫への愛情表現なんだ。

ポポロン。だいすき

また明日、会おう

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