誰にも話せないペットロスで感じた「別の命」への抵抗感と実は秘密にしてたこと
皆様ご存知の通り、僕は愛猫ポーチーとの別れを経験し、しばらくが経つ。
ほんっっっっっとに、しばらく経ったなあ。
早い。早すぎる。
過去記事で書いた通り、実際の時系列とブログでの時系列は大きくずれているのだが、本当に、時が過ぎるのが、早過ぎる。
気がつけばこんなに時が経っていて、それでもこんなにも、まだまだまだまだ毎日ポーチーを思ってるんだ。
今回はかなりナイーブな内容、否定される可能性もあるような内容、なのでまたもや一部分を有料とさせて頂きますが、だからこそ書ける本音を書いていこうと思っています。
今回はかなり賛否ありそうなので、ちょっと怖いのですが、あくまで、一個人の意見ですからね!
ポーチーとの別れの後、僕はずーっと元気でした。

割と元気に過ごせていました。激凹みして苦しくなると思っていました。ご飯も二度と食べられなくなったり布団にこもって出て来れなくなったりすると思ってました。
でも意外や意外、元気に過ごしてたんです。
SNS見ててもお分かりの通り、割と日常です。
それは闘病をやり切った!と心から思えていたからなのか、闘病中本当にひとときも離れず過ごせたことである種の満足感みたいなものがあったのか、わからない。
でもとにかく、火葬の後も本当にスッキリした顔で元気に過ごしていたし、仕事も普通にこなせていた。
それでももちろん、忘れるわけなんてなくて、闘病の思い出を思い返したり、その前のこと、出会った時のこと、全部を思い出したりしながら、骨壷を抱いたり、いろんなことをして過ごしました。
そんな生活の中で一つだけ、ずーっと、頭の片隅にあったことがあったんです。
それが
「早くポーチーの生まれ変わりに会いたいな」

でした。
ポーチーが亡くなってしばらく後に、庭で子猫が生まれたり、急に家の前に現れたり、そういう”奇跡”のようなことが起きたら、その子を家で面倒見ようかな
とか、そんなことを時たま考えたりしていた。
これ、動物との別れを経験した方はかなり多くの方が一瞬はよぎるのじゃないだろうか。
「もし柄が似てたら!」とか「声が似てたら」とかいろんな妄想したこともありました。
いや、でも全然違う見た目個性でも、このタイミングで出会えたらならそれは運命だよな・・・!
そして、その子が家に来て、育っていく中でもし運動神経が良くて・・・とかたくさんたくさん考えました。
今思えば、その「妄想」って、すごく人間らしいなと思う。
愛するものを失った時、きっと人は「続き」を探そうとしてるんだと。
大切な大切な物語が終わることを、どこかで認めたくないから。
だから映画でも小説でも、人気作であればあるほど続編は永遠作られるし、求められる。
医学をやたら全力で発展させたり、生活のクオリティを異様なまでに高くしたり、そういうのも全部ひっくるめて、人間って本質的に「終わり」に抗う生き物なのかもしれない。
でも面白いもので映像や漫画等の作品の中では「これは完成された物語だから」と引き伸ばしや、意図してない続編は求められないものもある。
でもそれが自分ごとになってしまうと、途端に
「まだ完成されていない物語なんだ」と思い込んでしまう(というか感性なんかされたくない!)だからやっぱり、続きを求めてしまうんだ
お庭のお花に水をやるとき、ウッドデッキの下をちょっとみてみたり(ウッドデッキ下は子猫が生まれる絶好のスポットである)散歩の時ちょっと遠回りしてみたり。
きっと無理矢理にでも“奇跡”があるって信じたくて、きっとそんなことをしていたのかな。
そんなことをしていたある日、
歩く道の直線上に。いたんです。子猫が。
サバハチの(ポーチーと同じ柄)

「あぁ」
声にならない声と知らない感情が押し寄せてきました。
体が震えました。痺れました。膝から崩れ落ちるくらい、力が抜けました。
そこで僕は気がついたんです。感じてしまったんです。
そして決心したんです。
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