先日の動画があり得ないほどの大反響。
奇跡だとか、愛だとか、本当に温かいコメントで溢れていました。
そりゃそう。弾いている当人ですら、ガラでもない「奇跡か」と自分の見えているものを見紛うほどだった。
そんな中こんなリプをいただきました。
「飼い主さん、演奏の手を止めずに聴かせてあげられていて、立派だな。
手を止めて、つい抱きしめたくなっただろうに…
愛猫のこれ好きって気持ちに応える事をちゃんと選べててすごい。」
すんごく嬉しいリプ、ありがとうございます。
本当にまさにこれで笑、曲がりなりにもプロとして音楽をやってる身としてはあり得ないレベルの弾き直し連打シーン。
本来は世に出すべきではないレベルのクソ演奏です。
ここは脳内で
「うわわわわ抱きしめたい抱きしめたいでも聴いてくれてる弾くの止めたらダメだ抱きしめたい弾くの止めたらダメ」
という葛藤が大爆発していて。
それが思いっきり演奏に出て、そのまま映像に残ってる感じ

本来こんなにも形になっていない映像を世に出すなどプロとしてはデメリットしかないのですが、こういう「演奏」もまた、きっと誰かの何かを動かすのかも、と突如芸術家的なことを書いてみる。
まあぽーちーにギター弾いてる時はだいたい作曲時なのでいつもこんなもんだけど…
本当に動いていない、動かない身体。
だって脳腫瘍だもん。身体の中もリンパ腫に蝕まれてたはず。
一歩動けば頭がぐわんぐわんで、歩くどころか前転のような動きになってしまうくらい。だから、そうならないように動かなくなってしまっていた。
のに、ギター弾きだしてものの数秒で動いてさ。
完全に膝に乗ってる時の手で。よく見たらモミっとしてて
耳は完全にこちらを向いている。
ああ、ギター弾くと決めて、よかった
ぽーちーにようやく会えた気がした

そしてぽーちーも
やっと僕に会えた気がしたんじゃないかな
そうだよ、ここが僕らのおうちだよ
大切な時間、一番大好きな時間を過ごそう
みんなも周りで寝てるよ。ボコたんはたまに黒い彗星になってるよ。
闘病中に、僕がずっと追いかけていた、追い求めていた、辿り着きたかった未来が
ここにあったんだ、と、そう感じた
だからこそ、ここで抱きしめる選択より、演奏を止めない選択をしました。
僕らの日常のために。
“当たり前”のために。
まあ普段なら今頃普通にギタ床に置いて肉球の匂い嗅いで仕事どころではなくなっているんだけどな、とは口が裂けても言えない…笑
僕が思い描いた「辿り着きたかった未来」

それは、きっと”当たり前”のことを”当たり前”にやれてる空間
それは、きっと深い意味や目標なんて要らなくて、病気があるとかないとか、何がないとかあるとか、そんなことじゃなくて
本当に本当に”当たり前”をただ”当たり前”にやれてれば良かったんだ。
それは、僕がどう考えるか、僕がどう過ごせるか、僕がどう考えてあげられるか、僕が、ポーチーに、みんなに何をしてあげられるか、それを、思ったまま、いつもの通り”当たり前”に、してあげれば良かったんだと。
ただそれだけだったんだと。
ただのエゴかもしれない。ただの気持ちの問題かもしれない。
でも
この時間は僕たち家族の失われた4ヶ月半を取り戻すようだった。
ああ、ポーチー。ごめんね。
やっと、会えたね。
大好きだよ
この時間
このお顔
ずっと。